「今度、シリコンバレーと地元中学校をビデオチャットでつないで授業しようと企んでるんですよ」目を輝かせて語る東修平さん(28)。異色の経歴を持つ、日本最年少の市長(※1)だ。京大の大学院卒、外務省出身。野村総研のコンサルタント職を経て、市政へ。なぜ、彼は「市長」という道を選んだのか。そこには「地方から日本を変える」という揺るぎない志があった。(※1)2017年6月時点
「私はこの四條畷で生まれ、育ちました」
5月の晴れた日、自然光が差し込む四條畷市の市長室。まっすぐに相手の目を見つめ、真摯に語る東修平さん(28)の姿がそこにはあった。
じつはここ数年、大阪府四條畷市の人口は減少の一途を辿ってきた。市単位で見たとき、経済状況も全国ワーストに近い。この現状を打開すべく、2017年1月に新たに市長となったのが東修平さん、その人だ。
彼が掲げたのは「新しい四條畷をつくる」というビジョン、そして市全体の立て直し。エリートとしてのキャリアを捨て、なぜあえてチャレンジするのか、そんな風に捉えた人もいたはずだ。決して簡単ではない、困難な道を選んだようにも見える。ただ、彼の眼差しは力強く、まっすぐ未来へと向けられていた。
「四條畷に元気を取り戻したいんです。そのために私は市長になりました」
28歳で、より大きな責任を背負い、市政に挑戦していく。彼を突き動かしたものは何だったのか。志を抱くにいたった背景と、彼の素顔に迫ってみたい。
東さんは、京大の大学院を修了し、国家公務員試験(理工I区分)をトップの成績で突破。ファーストキャリアは外務省職員だった。
彼がユニークなのは、そこから野村総合研究所に入り、市長になる直前まで、グローバルビジネスを担う経営コンサルタントとしてインドで働いていたということ。つまり官民、両方での経験を併せ持っている。
ただ、多くの人々が彼に惹かれるのは、その経歴によるところではない。対話をしていくなかで彼の素顔を垣間見ることができた。
小難しい理論ではなく、等身大の言葉、生活者の目線で真摯に語っていく。親しみのこもった笑顔、時折、ユーモアを交えながら場を和ませていく人柄。そして、何よりも人並み外れた「四條畷への熱い思い」がそこにはあった。
「誰かの役に立ちたい。そう思った時、どのような人の顔が思い浮かぶか。私にとってすごく重要なことなんです。多くの仲間たち、その家族、お世話になった方々が、この四條畷には暮らしています。もちろん、私の家族もいる。これからもずっとみんなが幸せに暮らせる町にしたい。顔の見える人たちの役に立っていきたいんです」
同時に「いくらなんでも28歳で市長になるのは若すぎる」といった声もあったはずだ。ただ、東さんにとって年齢は、それほど大きな問題ではなかった。彼を突き動かしたのは、使命感にも似た強い思い。
「今やらなければ、手遅れになってしまうかもしれない」
もともと地元のために働きたいと考えていた東さん。市の現状を知り、決意を固めた。
「父の病をきっかけに四條畷へと帰るタイミングがありました。そこで、改めて行政の計画、過去のデータなど、あらゆることを調べて。そうすると、人口は減り続け、経済も良い方向には進んでいない。このまま町を沈ませるわけにはいかない。変えるならば今しかない。そう思いました」
こうして誕生した最年少の市長。20代で市長となったことを特別なことだと考えていない。行政や政治に携わっていく若い世代を増やしていく。これも東さんの思いのひとつだ。
「私は自身が選んだ道を、”異端”だとは全く捉えていません。これからの時代、若い世代がどんどん行政や政治に興味を持ち、広く携わっていってほしい。たとえば、“20代が市長になる”という選択肢も当たり前にしていきたい。そういった日本にしていきたいです」
若い世代が自分たちの力で国を動かしていく、その挑戦の第一歩ともいえるだろう。
「変革を起こすために、年齢や生まれは関係ありません」
その言葉どおり、彼の親族には誰一人として政治家がいない。大切なのは、未来をどうしていきたいか。どうまわりを巻き込んでいけるか。
なぜ、彼は若くしてこのような考えを持つに至ったのだろう。そこには人生に大きな影響を与えた人々との出会い、そして別れがあった。
当然、東さんは、はじめから市長になることを決めていたわけではない。学生時代には将来について葛藤した時期もあった。そのような時に実践したのが「とにかく動く」ということだった。
「1年間、大学院を休学し、東京のベンチャー企業でインターンをしたり、留学をしたり、さまざまな人に会いにいきました」
多様な世界を自分の目で見る。その上で、あらためて「日本という国のために働きたい」と外務省を選択。担当したのは、環太平洋経済連携協定(TPP)をはじめ、貿易協定の交渉に関する業務だった。
そして、東さんの人生を大きく左右する出来事が起こる。それが恩師、松田誠さんとの出会い。TPP合意において多大なる貢献を果たし、「松田さんなくして、TPPは実現しなかった(※2)」とも言われている外交官だ。
「当時、私の上司だった方なのですが、たまたま同じ大学の学部出身でもあり、よく食事にも連れて行っていただいて。とてつもなく仕事ができる人であり、また真の人格者でもありました」
松田さんは、責任者の一人としてTPP交渉への参加が決まると、1000ページに及ぶWTO協定書を読み込み、1ヶ月足らずで各交渉分野の専門官よりも内容に精通。加えて、交渉にあたる相手国について入念に調べ、相手の立場を理解した上で交渉を行い、相手国の外交官でさえ心を許し、信頼を寄せていたという。
その松田さんを心から尊敬し、人生のお手本にしたいと考えていた東さん。そんな矢先に飛び込んできたのが、松田さんの訃報。TPPが合意に至る約半年前、2015年3月、享年49歳だった。
(※2)引用・参考 『TPP合意にかけた或る外交官の死』
https://www3.nhk.or.jp/news/imasaratpp/2016_0211.html
「彼はどんな時でも、“国益”を問い続けた人でした。国にとって何が良いのか。日本をどう良くしていくのか。この人亡きあと、私は日本のために何ができるのか。どう生きていくべきか、強く自問するようになりました」
もし、20代である東さんが霞ヶ関で仕事をつづけ、国を動かしていこうと考えたなら、何年かかるかわからない。松田さんが亡くなってしまった49歳までに、自身は何を成すべきか。そして、時を同じくして語られるようになったのが「地方創生」だ。
「地方自治体を立て直さなければ、日本に未来はない。まずは地方から日本を元気にしていく」
この時、四條畷市の市長選への立候補を決意したとふり返る。
「当初、30代での立候補を考えていました。ただ、それまで省庁で働いた経験しかなく、民間企業でも知見を深めたい。そう考え、入社したのが野村総合研究所でした」
結果的には、考えていたよりも早い段階で四條畷市の立て直しに取り掛かることに。ただ、「思いっきりやってこい」「もし落選したら雇い直してやる」と背中を押してくれたのは、野村総合研究所で共に働く上司、その仲間たちだったという。
多くの人と出会い、そして、思いを背負って市長となった東さん。
市長となって4ヶ月。いま、彼が実行に向けて動いているのが「四條畷市を、地方創生において成功のモデルケースにする」という計画だ。
「地方自治体における成功事例をつくり、それを全国へと波及させていく。これが実現すれば日本全体が良くなっていくことにつながります。いわば“パイロット自治体”をつくっていくということ。国は前例がなければ動きません。ならば、自分たちの手で前例をつくっていけばいい」
そして、外務省・野村総研でキャリアを積んできた彼ならではの自由な発想がそこにはある。
「もし、予算が足りなかったら、クラウドファンディングを使ったらいいですよね。アイデアやスキルが足りないのであれば、勢いのあるベンチャー企業と組んだらいい。今、経済的に急成長している東南アジア各国として連携していくのもおもしろいかもしれません」
そう語る彼の表情は「新しい未来、新しい四條畷をつくっていく」そんな決意に満ちていた。東修平さん、そして四條畷市の挑戦は、まさに今、はじまったばかりだ―。